あおば法律事務所
水俣病豆知識 排水路変更

排水路変更

 1932(昭和7)年にチッソがアセトアルデヒドの製造を始めてから、その廃水は、水俣湾にそそぐ百間排水口から排出されていた。
 ところが、1956(昭和31)年5月に水俣病が公式確認され、水俣湾周辺に患者が次々と発生し、同年11月には熊大医学部研究班が、原因物質をある種の重金属と指摘して以来、チッソの工場排水が疑われるようになった。そういう状況において、1958(昭和33)年9月、チッソは、このアセトアルデヒド製造工程からの排水路を秘密裏に変更している。百間排水口は、チッソ水俣工場南側から水俣湾につながっていたところ、工場北側の水俣川河口にある八幡プールという広大な廃棄場に流し込むことにした。そして、この廃水は八幡プールを経て、水俣川に流れ込み、不知火海を汚染することになった。
 この排水路変更に対し、チッソ附属病院の細川一院長は、強く反対したという。その理由について細川一院長は、水俣病第一次訴訟の証人尋問で、次のように証言している。
「向こうで患者が出たら、大変な、もうこれは証明になりますからね、ひとつの」
 つまり、水俣川河口付近で患者が発生することを心配し、もしそうなれば、チッソの排水が原因であることの人体実験による証明をするようなものだと考えたということである。
 この細川一院長の心配は的中した。水俣川河口付近で魚を捕って食べていた人の中に水俣病患者が発生したのである。その後は、不知火海沿岸に沿って北側の芦北地域と、南側の鹿児島県出水市にまで患者発生地域が大幅に拡大することになった。まさにチッソによる人体実験の結果、被害が拡大したと言える。
 こうした事態を重視した通産省(当時)は、1959(昭和34)年10月21日、チッソに対し、水俣川への排水を中止し、浄化槽を設置するよう行政指導した。国は、この時点で水俣病の原因がチッソ排水であることを知っていたとしか考えられないのだが、そのことを国が公式に認めたのは、9年も後の1968(昭和43)年のことである。
 チッソは、この通産省の指導を受け、八幡プールへの排水を停止したが、垂れ流しをやめたのではなく、サイクレーターというごまかしの浄化槽を設置した上で、あたかもアセトアルデヒド工場から排出される廃水がこれできれいになったかのように装って、再び百間排水口から水俣湾に放流するようになっただけであった。

以上