あおば法律事務所
水俣病豆知識 待たせ賃訴訟

待たせ賃訴訟

 水俣病の認定業務が停滞し、認定申請者に対する行政による違法な不作為状態が継続した場合に、公務員の不法行為として国家賠償法に基づく慰謝料請求権が認められるかどうかが争われた事件がある。不作為違法確認訴訟で勝訴した原告を含む未処分者らが原告となり、認定業務を委託した国と受託した熊本県とを被告とし、熊本県知事の処分遅延によって、認定申請者として焦燥・不安の気持ちを抱くことによる精神的苦痛を被ったとして、熊本地裁に提訴された。これが水俣病認定業務に関する熊本県知事の不作為違法に対する損害賠償請求事件であり、通称「待たせ賃訴訟」である。
 昭和58年7月20日の第1審熊本地裁判決,昭和60年11月29日の第2審福岡高裁判決のいずれも、この原告側の訴えを認める原告勝訴判決を下した。国・熊本県がこれを不服として上告し、平成3年4月26日、最高裁第2小法廷判決は、慰謝料請求が認められる可能性を認めつつ、審理が不十分であるとして、これを福岡高裁に破棄差戻した。判決で最高裁は、次のように述べている。
 まず慰謝料の根拠となる保護法益について、「水俣病にかかっている疑いのままの不安定な地位から、一刻も早く解放されたいという切実な願望からその処分を待つものであろうから、それだけに処分庁の長期の処分遅延により抱くであろう不安、焦燥の気持は、いわば内心の静穏な感情を害するものであって、その程度は決して小さいものではなく、かつ、それは他の行政認定申請における申請者の地位にある者には見られないような異種独特の深刻なものであ」り、こうした「認定申請者としての、早期の処分により水俣病にかかっている疑いのままの不安定な地位から早期に解放されたいという期待、その期待の背後にある申請者の焦燥、不安の気持を抱かされないという利益は、内心の静穏な感情を害されない利益として、これが不法行為法上の保護の対象になり得る」とした。
 その上で、不法行為の成立要件について次のように判示した。「処分庁の侵害行為とされるものは不処分ないし処分遅延という状態の不作為であるから、これが申請者に対する不法行為として成立するためには、その前提として処分庁に作為義務が存在することが必要である。」「作為義務のある場合であっても、その作為義務の類型,内容との関連において、その不作為が内心の静穏な感情に対する介入として、社会的に許容し得る態様、程度を超え、全体としてそれが法的利益を侵害した違法なものと評価されない限り、不法行為の成立を認めることができない」
 そして、原審福岡高裁が各原告についての不作為による違法期間を認定している点について、「当時の全体の認定申請件数、これを検診及び審査する機関の能力、検診及び審査の方法、申請者側の協力関係等の諸事情を具体的個別的に検討して判断すべき」であって、認定申請者たる原告らによる「受診拒否等によって判断資料を得ることができない申請者については、審査会は審査をすることができず、したがって、処分庁も処分をすることができない」という事情は、単に過失相殺による損害額の減額にとどめることはできないとした。結局,原告らについて、「どの程度の期間があれば処分が可能であったのかは明らかではない」とし、仮に福岡高裁判決における処分可能時期の認定が相当であって、「それ以後も知事が処分をしないままに時が経過することがあったとしても」前記の諸事情の認定がされていない限り、「その間、知事が認定業務を処理すべき者として通常期待される努力によって遅延を回避することができたかどうかは明らかではないので、不当に長期間にわたり知事が処分しない状態にあり、これが被上告人らの内心の静穏な感情を害されない利益を侵害するものとして、全体として法の許容しない違法な行為と評価すべきかどうか、ひいては知事が故意にこうした結果を回避しなかったか又は回避すべき義務を怠った点に過失があったことになるのかどうかについても、判断することができない」ので、これらの点についてさらに審理を尽くさせるため、差し戻すとしたのである。
 なお、差戻審の福岡高裁では、平成8年9月27日の判決において、具体的な検診態勢改善に向けた協議の経過等の行政の対応、さらには原告らの検診拒否あるいは検診日の無断欠席といった事実を認定した上で、「当時の具体的状況の下では、水俣病認定業務を担当する知事としては、検診、診査の態勢を改善、充実させて処分の遅延を解消するための相応の努力をしたということができる」などと述べ、知事の条理上の作為義務への違反がないとして、原告らの請求を棄却した。

 現時点において、熊本県及び鹿児島県の認定審査会は、現時点で5000名を超える認定申請者がいるにもかかわらず、認定審査会委員のなり手がなかったため、関西訴訟最高裁判決から2年以上を経過しても審査会を構成することがでずに開催されなかった。熊本県は、本年3月から再開すると記者会見で発表したが、その処理能力は年間100名程度とされており、現時点の認定申請者の全ての処分が出されるまでには、単純計算で数十年かかることになる。鹿児島県については、将来において開催される目処も立っていない。また、そもそも審査の前提となる検診をする医師の確保も十分ではない。結局のところ、このままでは現在の行政認定申請者らについて、検診が終了するのがいつになるのかも不明であり、当然のことながら、認定か棄却の処分がいつなされるのかも、患者らはもちろんのこと、行政(熊本県、鹿児島県,環境省)においても、全く見通しが立たない状況にある。
 このような状況に陥った原因は、いわゆる昭和52年判断条件にある。これは、昭和52年7月1日に環境庁(当時)企画調整局環境保健部長が出した「後天性水俣病の判断条件について」という通知で、それ以前の認定基準である昭和46年8月7日の環境庁事務次官通知「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法の認定について」にはなかった複数の症状の組合せを認定の条件とし、実質的に認定条件を厳しくしたものである。
 この昭和52年判断条件とこれに基づく認定審査のあり方については、司法によって厳しく批判され、最終的に、関西訴訟最高裁判決の原審である大阪高裁判決でも水俣病の救済基準としては否定され、これが最高裁で是認されている。つまり司法においては、行政認定申請では昭和52年判断条件に該当しないとして棄却された患者について、感覚障害だけでも水俣病患者として認め、慰謝料請求が認容されたのである。その結果、行政認定制度の中では水俣病ではないとして棄却処分を受ける感覚障害のみの患者が、司法の場では水俣病として認められることになるという行政と司法との二重の基準が存在する事態になった。
 熊本県・鹿児島県の認定審査会委員としては、昭和52年判断条件に従って棄却の答申をしたとしても、それが司法の場では逆転する可能性があるという矛盾を抱えた状態を潔しとせず、任期切れを機に再任を拒否したため、両県の認定審査会が構成できなくなったのである。また、そのような審査会の審査の前提資料となる検診を担当する医師の確保が困難になるのも当然である。
 ところが環境省は、昭和52年判断条件について、医学的に正しいとの見解に固執し、見直しを検討することすら拒否している。環境省が医学的に正しいと主張する根拠となっているのは、昭和60年10月15日の「水俣病に関する医学専門家会議」の意見書が、昭和52年判断条件を医学的に妥当としているのみである。しかしこの意見ですらも、感覚障害のみの水俣病について、全く否定はできないとしている。このことからすれば、昭和52年判断条件は司法において批判され続け、それを妥当とする意見書から既に20年以上も経過した現在、見直すかどうかの検討すらもしないことは、公害被害者救済を担うべき行政として怠慢以外の何者でもない。
 環境省が、水俣病関西訴訟最高裁判決に従い、感覚障害だけでも水俣病であるとして、司法の基準で救済するようにしない限り、認定審査会が正常に機能することはない。すなわち,判断条件を見直し、司法との二重の基準という矛盾を解消することが必要かつ不可欠なのである。そうした検討すらしないということであれば、行政の重大な怠慢と評せざるを得ないところである。
 さらに、待たせ賃訴訟当時は明らかでなかった水俣病問題における国・熊本県の法的責任問題について、関西訴訟最高裁判決により、国・熊本県は、水俣病患者に対する賠償義務者すなわち加害者としての立場に立つことが確定している。その意味では、迅速な救済をはかるべく、認定申請者に対する迅速な処分をなすべき条理上の義務は、一層強いものと認められるべきこととなったのである。
 そして、認定業務は国が県に委託し、昭和52年判断条件は環境省が定めたものであり、県知事が独自にこれを変更ないし見直す権限はないと思われる。そうであるならば,認定業務の委託者である国が、容易になし得る改善努力をせず、未処分者の長期滞留の原因を故意に維持し、あえて違法状態を許容し続けていると言えよう。そうすると、いわゆる待たせ賃訴訟最高裁判決の基準及び国も加害者の一人であることに鑑み、国はいずれ、全ての行政認定申請者に対し、国家賠償として慰謝料を支払わざるを得なくなる事態に陥ることになるのではないだろうか。

以上